焦点の、当て方。

このあいだふと、何を調べていたか忘れたが、

翻訳者の青木薫さんの訳した本の一覧をみていて、

ふと、この本をみつけた。

 

 この本の副題が「牛を球とみなして始める、物理学的発想法」となっており、

ここにわたしは「!」となったのだった。

 

今日は息子が、とても投げやりで落ち込んでいた様子だったのだが、

その原因を広く広く、もやっとさせてしまうことは、

まさにこの「牛を球とみなす」ことで、これはやっちゃいかんと思い、

いったいどこでそう自信を失い始めたかに立ち戻ってみた。

 

太陽天秤月おひつじ、な息子にありがちなことは、

そう、自分の意志というものがあるようでないわけだ。

アンスクーラーとして育てておいて今更、

彼は実は普通が好きで、

普通の世界から客観的に評価されたいというのが太陽なのである。

 

ってなわけで、つまずいていた、やりかけていたドリル、

好きで得意で解いていた数学、このあたりの「どこでつまずいたのか」に立ち戻り、

それこそ、言霊をこめるように、わたしが漢字にふりがなをつけたり、

関連する言葉や、似ているイメージをついでに説明したりしているうちに、

また自分で楽しそうに学ぶことを取り戻し始めた。

 

そう、小さなことをきっかけに、話が大きく拡大しすぎてしまうことは

類化性能方式の弱点なのである。

大きな話に繋げないほうがいいときも、ある。

抽象化してはいけないときもある。

冷静に、矮小化して、分けて捉えるほうがいいことも、あるわけだ。

 

そのあたりに冷静になりつつ、取り組めるようになってきたことは

わたしも成長なのかも、しれない。

 

焦点がぼやけてくるとたいてい、呆然としてしまう。

具体的になりすぎる、ということはわたしの場合あまりなく、

うしろにがーっとひろがりすぎてしまうことのほうが多いわけで、

そのあたりの癖を自分で気付けるならそれでいいのである。

 

で、この青木さんが訳した本でもういっこ気になるものがある。

 

 

昨今シンプソンズといえば、陰謀論的に、予言しててあたってるじゃん、

みたいにいろいろ噂になっているけれど、

わたしが思うのは、黙示録的な世界観と同じことで、

力学の世界、数えることができる世界の法則を、最大限につかいまくったら

そりゃさいごはこうなるだろうよ、ということは普通に予測できるわけで、

それは陰謀でもなんでも無いだろう、ということなのだ。

 

わたしは数学は苦手なので、計算を通じてそのことを理解することはできないけれど、

イメージの世界としてそのことはわかる。

 

だからこそ、先にもう設定として動かない「イメージ」の世界、

それをばらして取り扱い始める、数の世界は、イメージに隷従しているわけで、

 

だったらそのねっこの「イメージ」「想像力」というところに

はたらきかけるしか、ないよね!

 

そしてそれを、いかにもやもや雑に扱わず、

きちんと具体的にひきおろせるか?

 

それこそが、数える神たちとの戦いだと、思う。